果たして孫の顔を見せたいのか

 元気にクソガキやってます。鍋太郎です。特に長いし気分が悪くなるかもしれないから気をつけて下さい。

突然ですが以下お付き合いしてくれている彼女の台詞です。

 そもそも私は子供を欲しいと思ったことがあるだろうか? 自分の苦しみや負担だけを考えて生殖を選択しないというのは許されることなのか?

  自分に向けられたものじゃなくて独白に近いものだったのだけれど、考えるきっかけになったので備忘録をつける。そう忘れるものでもないと思うけど

 

以下長い前置き。僕の家の話。

 

 僕の祖父は芸術家である。勿論その類の人がどうとか言うつもりではないのだけれど、所謂典型的「芸術家」イメージに近い芸術家だった。アレです。ツボを焼いては満足いかずぶん投げて粉々にする系の。偏見だったらごめんなさい。

 始末の悪いことに、ストレスの矛先が周りに向かうタイプの人間だった。それでおばあちゃん(僕の祖母で祖父の妻。以下おばあちゃんと呼称)に暴力を振るい、酷い時には腕の骨を折るに至るまで痛めつけた。

 結果おばあちゃんは家を出て、息子であった親父は俗っぽい言い方をするとグレた。家にもほとんど帰らなかったらしい。その弟である伯父は家を飛び出したっきり帰ってこず、僕もその存在を数年前知ったばかりである。今もどこにいるのかは知らない。まあ知りたいとも思わない。

 今の親父と祖父との間柄はまあ普通。親父が流派の襲名をしたこともあって、一緒に稽古をしたり催物をするくらいの仲だ。ただその裏にどんな感情が渦巻いているのか知らないけど。

 義理の祖母(祖父の再婚相手。以下義祖母と呼称)はよくしてくれている。というか高校に入るくらいまではその人が本当のおばあちゃんなのだと思っていた。血の繋がった祖母のことはどっかの親戚だと認識していた。その人に向ける「おばあちゃん」という呼称を「祖母」としてではなく、「単なるおばあちゃん」として使っていたように思う。「叔母」である「おばちゃん」と、「中年女性」である「おばちゃん」の違いといえばわかりやすいだろうか。

 

 大学と向こうの居住地が近かったこともあって、入学をきっかけにおばあちゃんと親しくし始めた。初めて向こうの家にお邪魔した日の帰り際、向こうがいきなりしくしく泣き始めるのを見たとき、戸惑いと同時になんとなく吐き気がこみ上げた。

 おばあちゃんへの憐れみでも、祖父への怒りでもなんでもなくて、ただただ気持ち悪かった。「孫に会えたので泣く」というハートフルストーリーによくありそうな状況がえげつなく歪んでいる気がしたから。多分。わからん。

 今でも親父はどこかで祖父を憎んでいて、酷く酔ったときとか憤ったとき、また児童虐待のニュースを見たりしたときなんかに滲み出るように現出する。

「虐待を受けた人間は同じことをする」

なんて説があるけど、親父はその衝動があることを自覚していて必死に抗っているようでもある。人に、特に家族に矛先を向けないようにしている。本当に怒らせた翌日なんかはリビングの壁がへこんでいたり椅子の足が一本なかったりする。借家じゃなくてよかったね。そういう話ではない。

 

長い前置きだった。

 

親父には半分、僕には四分の一祖父の血が流れていて、また祖父が原因で祖母と親父、伯父がどうなったかも知っている。「家族」ということを考えるとき、それらは絶対頭のどこかをちらついて、無論子どものことを考えるときも例外じゃない。

 冒頭の彼女の独白は「子どもをもつこと」に関するものだったけど、こっちのは「家庭をもつこと、誰かと寄り添うこと」に対するおそれと不安だ。そもそも今彼女によくできているのかに懐疑的ですらある。

 世帯をもったり、子を授かったりすることならなおさらで、それは「適さない人間」が「適さない関係」を結んだときにどうなるか一応知ってるからだ。自身が虐待を受けていた人からすると生ぬるいにも程があるけど、それでこわいものはこわい。自分が地獄の担い手になってしまうかもしれないのがこわい。未来は不確定なので。自分がそういう「適した」人間なのかどうなのかさっぱりわかんねーんだもんよ。誰か教えて

 

 

 

 今でもおばあちゃんが僕と話していて不意に涙ぐむのを見ると悲しい。テレビでよくある美談なんかでは全然なくて、そもそもそういう状況は地獄の産物であることを実感させられるからだ。おばあちゃんが悪い訳では無いだろうから余計悲しい。

まあそれはそれとして、いずれまたいっぱい飲みに行こうなという話をしている。元気でいてほしい。

 

 

 ぼやぼや思ったことを書いただけなのでいずれまた追記したりするかもしれない。最高級に疲れた頭で書いたので色々許してください。